2013年3月7日木曜日

不可視光線 序 <5>


雨に濡れた髪が、重たく被さって視界を邪魔する。
まるで、彼の日散った花弁の如くだ。

「ヨシよ。おれはな、誰にも譲れないんだよ」

芳雄は、知らぬ間に自分の足が歩き出して居る事に気付いた。
遠く離れたかと思った十郎は、存外に近くに居て、
芳雄を見ると、少しだけ驚いたような顔をした。

 しかし、直ぐに又目を伏せて、そして十郎は立ち止まった。

「なあ、こんな櫻なら、幾らだって譲ってやるさ」

芳雄は、十郎を直ぐ間近に見て、手を伸ばした。
十郎は、気付かぬ振りで櫻の木を見上げる。

「……此処の櫻は、何と云ったかな」
「染井吉野」
「ああ、そうだった」

十郎は、芳雄が手に触れて来るのへ、視線で応えた。
其の手には、小石を握って居る。

十郎は続けた。

「櫻と云って、そう言うのが憚られる位に情けない、
類似品の姉妹品だ」
「……」

「イミテーションでもレプリカでもない本物の櫻は、
こんな風に下品に媚びて見せたりしない物だ」

「本物の櫻?」

「尤も、今は櫻と云えば染井吉野に成って仕舞ったが」

 芳雄の手をすり抜けて、十郎は小石を投げた。
濡れた地面に落ちた小石は、水玉模様になって、
やがて地面と同じ色に落ち着いた。

 雨は徐々に激しくなる。
すっかり頭から濡れそぼって、首の辺りを幾筋も水が流れて行った。
十郎は、高い位置で結んでいた髪を解き、

「なあヨシよ。
おれがどうして、未だ開かない蕾の櫻を見に来たか、分かるか」

「……いいや」

芳雄が答えると、十郎は前髪から水を滴らせながら、
ほんの微かだけ微笑んで見せた。

「其れはな、此の木にやがて咲くだろう満開の花より、
何時だったか庭の木に咲いた、
申し訳程度しか花をつけない櫻の方が、好きだからさ」

 十郎は、其の儘再び歩き出す。

着物がぐっしょりと濡れて、体にまつわりついた。
芳雄は、其れを鬱陶しそうに引っ張って、困ったように十郎を見る。

雨の中、傘も無い。

其れでも十郎は歩いて行く。
蕾だけを誇らしげに抱えた枝々を、満ち足りた風情で眺めながら。

 そうして芳雄は、止めれば良いのに追い掛けて仕舞う。
其れは惚れた弱みとでも云おうか、
自身の管轄外で行われる事だから仕方ない。


つづく


※2000年3月 執筆

(2007年2月22日発行 個人誌より転載)

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